エンジニアの語学力

「英語さえできれば」というフレーズを、口にしたり耳にしたり目にしたりすることは多い。

でも本当にそうだろうか?
いや、もちろん、外国語が話せるのは悪いことではない。話せたほうがいいに決まっている。

でも、外国語、ことに英語を話すことに、あまりに幻想を抱きすぎるのもあまりお勧めしないし、今以上に時間をかけて英語教育を義務化することへの必要性には疑問がある。

第一に、外国語はテーマや分野がある程度限定されていれば、意外と難しくないこと。

外国語を話すとき、日常会話が意外と一番難しい。お互いに前提とする条件がないので、全般的に広い語彙が必要になるし、口語表現が外国人にとっては難敵だったりする。
一方で、自分の専門分野に限れば、基本的な文法を勉強して、その言語で書かれた本を何冊か読めば、よく使われる語彙と言い回しでそこそこのコミュニケーションが可能になる。

逆にテーマをや使う場面を限定せずに、満遍なく語学を勉強するのは、時間も労力もかかりすぎる。
外国語のエキスパートを目指すのでなければ、語学はそこそこにしておいて、自分の専門分野を磨くほうが効率が良い。


第二に、全員がネイティブレベルを目指す必要はないんじゃないか、ということ。

何しろ外国語をマスターするのには時間がかかる。基礎的な文法を勉強するのはさほど難しくないが、学べ間学ぶほど文法上の例外も増えていくし、日本語を考えてもわかってもらえると思うが、地域によって、年代によって、性別によって、階級によって、職業によって、使う語彙や表現が変わってくるので、正直いって際限がない。
時々、「子供の頃からやらなければ、英語のLとRの発音が区別できない」などと言う人もいるが、だから英語でコミュニケーションできないかというと、そんなことはないんじゃないかと思う。

そういうのは、通訳とか翻訳家とか言語学者とか、とにかく専門家にお任せするとして、エンジニアはシンプルに言いたいことが言えて書けて読めて、質疑応答の過程も含めて、相手の言いたいことが理解できれば十分だと思っている。それ以上の能力が必要なときには、専門家を探せばよろしい。

ということで、英語ならば中学レベルの文法と専門分野の語彙があれば、十分なんじゃないかと思っている。


第三に、勉強のための勉強は意味がない。言葉は使うためにある。

日本では中学、高校、大学と英語を勉強するし、本屋にも「英会話」の本があふれているのに、英語への苦手意識がものすごく高いのは、やっぱり「英語を使わないから」なんじゃないかと思う。

外国語をある程度までマスターしようと思ったら、教室の中だけでできることには限りがある。文法などと並行して、話す、聞く、読む、書くをバランスよくやっていかなければ、使い物にはならない。たとえ語学留学や海外生活をしたとしてもこれを怠れば、語学力は進歩しない。

実際、私が住んでいる国では、何十年住んでいてもいまだに現地語は片言という人も結構いる。だから、留学は近道だけれども、留学したからと言って、全員が全員ペラペラになるってわけでもないし、現地に住まなくても勉強できる方法はたくさんある。

だから英語に限っても、今の時代教室で受験英語を勉強するよりは、インターネットでニュースやインタビューの動画を見たり、skypeでネイティブとチャットしたり話したりする方が、よっぽど外国語は身につくと思う。作文もブログなどで書いて、どんどんネイティブに読んでもらって添削してもらうと良い。



と、エンジニアの語学力について考えたことを書いてみたが、結局は、言葉は「何かを知るため」「自分の言いたいことを伝えるため」の手段に過ぎない。だから、まずは自分の専門があって、その上ではじめて、外国語でコミュニケーションできることに意味がある。逆に言えば、それがあれば、言葉は後から何とでもなる、というのが持論だ。

なんで、エンジニアとしては漠然と目標なく英語や外国語を勉強するくらいなら、自分の専門分野を磨いたほうがいい。必要性がなければ、いくら語学をやっても時間ばかり浪費して、身につかないからだ。必要性を感じた段階でとりかかればいい。
経験上、意外とそういう目標と順序でやったほうが、ただ漠然とやるよりは語学も早く身につくので効率も良い。

それで、少し日本語以外の言語を覚えて、その言語の文献を読み、その国の人とコミュニケーションがとれると、驚くほど見識を広げることができる。一つの言語を身につけるほどに、自分の世界と可能性を広げることができる。

ということで、逆説的なようだけど、やっぱり外国語はできたほうがいい。でも、外国語を勉強するんじゃなくて、あくまで手段として利用するのがエンジニアとしては正しく効率的な方法なのかもしれないと思う。

「忙しい」を放っておいてはいけない

思えば、私が新社会人としてはじめて配属されたときについた教育担当担当の先輩技術者は本当に尊敬できる巣晴らしい人だった。直接的な実務はあまり関わりがなかったので、それはまた別の先輩技術者に教わったのだが、エンジニアとして生きていくための根本みたいなところは、その人に教わった。

この人に教わったことは、今でも脳裏に深く残っていて、仕事に関してだけではなくて、色々な場面でよみがえる。

中でも一番、折につけ思い出すのは、「定常的に忙しいなら、根本的な問題がある。そういう状態を放っておいてはいけない」ということだ。

これに対するうまい例えを最近ウェブの記事で見つけた。

あるところに新しい斧を手に入れた木こりがいた。
斧は切れ味素晴らしく、1日でたくさんの木を切り倒すことができた。
毎日毎日、彼は朝から晩までせっせと仕事に励んだ。
しかしそれと反比例して、日に日に切り倒せる本数は少なくなっていった。
それを見ていた人はアドバイスした。
「斧を研いだらどうだ?。刃がボロボロになってるじゃないか。はかどらないのは当然だよ」
すると、木こりは答えた。
「そんなことをしている暇はない。私は忙しい。もっと数多くの木を切り倒さなければならいのだから」

こういうのを「木こりのジレンマ」と言うらしい。

私たちがいた開発チームはとにかく忙しかった。会議も多かったし、開発スケジュールはタイトだったので、多くのエンジニアが定常的に残業を行い、それでも工程を維持するためにわき目も振らずに必死だった。

で、常に「忙しい」を連発して、その状況を改善する余裕も暇もないと思っていて、そのことがさらに「急がしい」状況を作り出していた。
その先輩が改善しようとしていたことは、まさに「斧を砥げ」ということだったのだと、今ならよく理解できる。

そもそもエンジニアは、「目の前にある問題を解決する工夫」を作り出す仕事だ。目の前に与えられた状況から、改善すべき点を洗い出して、現状の問題を解決する手段を作り出すのがエンジニアだ。そのエンジニアが、そういう工夫を怠ってはいけない。

優秀な木こりでであれば、斧の状態が万全かどうかを時々はチェックして必要なら手入れをするだろう。
ましてや、我々エンジニアであれば、もっと効率よく木が切れないかを考えて、チェーンソーを開発したり、切り倒した木を素早く運ぶための車やベルトコンベアなどの輸送システムを作ろうと考えるべきところだ。

本来、エンジニアは「楽して効果を上げる」方法を常に考える職業なのだ。むしろ、「忙しい」時ほど、少し手を止めて、そういう工夫ができないか考えて実行するいいチャンスなのだ。

「忙しい」「忙しい」を連発するエンジニアは、その程度の工夫もできず、自分のおかれている問題すらも解決できない駄目エンジニアだ、と自分で公表しているようなものだ。

今の環境に不満を持つ人が取れる方法は3つしかない

「日本はダメだ」という日本人の声も聞くけど、実際のところ今の不景気は世界規模で、世界中どこに行っても問題を抱えていない国はない。
その中で、日本の抱える問題が世界ランクでどのくらい深刻かといえば、かなりマシな部類な気がする。
(ただし、原発事故と放射能の対応だけは世界レベルで深刻かも。)

ただ、日本で生活をしていて個人が肌で感じる閉塞感みたいなものは、同レベルの経済規模を有する国ではなかなかお目にかかれないほどに深刻かもしれない。ひとつは日本が求めてきたレベルが非常に高いこと、そしてこれまでの日本の成長にはかなり個人に犠牲を強いるものだったことなど、その要因は色々あるとは思うけれども、原因はともかくとして、そういう閉塞感を打開するために、一人の人間が取れる解決策は三つしかないと思っている。

  • 今のシステムを変える
  • 我慢する
  • その社会を離れて新天地を探す


ちなみに私自身は、他人や社会を動かしてシステムを変えるほどの力はなく、かといってその閉塞感には耐え難かった。
それで、私はそこから抜け出すという最後の選択肢を選んだ。

だいたいにおいて、日本人は精神力が強すぎる。
日本の年配の諸先輩方は、「最近の若者は根性がない」と仰るけれども、世界レベルで言えば、日本人はまだまだ十分に精神力が強い部類だと言っていい。
そのせいいで、多少の困難があろうとも、現状に耐えてみてしまうのだ。

ところが、世界の多くの人々はそうではない。
現状が耐え難く不快であれば、それを解決しようと行動する。
理不尽と思えば、我慢はしない。

これは同じアジア人であっても、こちらで出会った韓国人・中国人・タイ人には日本人ほどにこの特徴が見られなかったので、やはり日本人のメンタリティは少し独特なのだと思う。

「忍耐力」は日本人の強みだけれども、時々それに頼りすぎて、多少の理不尽があっても無理に通してしまって、なんとなく社会が回ってしまうので、個人の忍耐力に頼ったまま、いつまでも根本的な大きな変革を行わず、合理的とはいえないシステムがずっと継続するというデメリットになるときもある。

話は逸れたが、何が言いたかったかといえば、日本の社会に蔓延している閉塞感は、この「我慢する」に頼りすぎているせいもあるんじゃないか、と言うことだ。
個人の我慢でどうにかするにはすでに限界に来ていて、根本的な意識やシステムを変えるべき時期に来ているということなんだろうと思う。

どこまでは耐えて、どこからはやり方を変える方がいいのか、日本人はもうちょっと見直してみると、もっと楽にいろんなことを進められるかもしれない。

思ったことをひっそり書いていきたい

欧州で働き始めて早数年。
正直なところ、日本国内だけで生活していたときとは、物事の考え方や見え方が大きく変わったと自分でも思う。

それは「欧州最高」って日本をdisりたいわけじゃなくて、それまで当たり前だ、常識だと思っていた日本人の習慣や考え方が、日本の外を出てみたら決して普通ではなかったと気づいたってこと。
その中には、日本が世界に誇っていいこと(尚且つ、多くの日本人がそれに気づいていないこと)もたくさんあるし、逆にそれはおかしいんじゃないか、と思うことも含まれている。

だいたいにして、この「世界」っていうのが曲者で、それぞれに異なる「局所」の集合体にすぎない、ってことにも気づかされたことも大きかった。
あくまで、私がいるのが欧州の一国であって、それで「世界」を語るなんて随分とおこがましいはなしだけども、これがアメリカのニューヨークだろうと、アフリカの村だろうと、それは「世界」の一部でしかない。
勿論、日本だってその一部だ。「世界」とか「国際社会」が日本の外のどこかにあるわけじゃない。

と、こういうのは、あくまで私が今置かれた立場から切り取った「世界」なわけだけれども、今日本で、ある種の閉塞感を感じている人たちに、少しだけ違う視点を持つきっかけになってくれたら、という気持ちがあってこの雑記を始めてみる気になった。

特に2011年は、10年くらい経って振り返ったときに、多くの日本人にとってターニングポイントだったという年になる可能性は高い。
3月11日以来、多くの日本人の人生が大きく変わったと思うし、これからも変わっていかざるを得ない。

日本の外からここ最近の母国を見ていて、3月以前よりも増して切迫して、「何かを伝えたい」という気持ちが強くなった。

勿論、「日本を離れたお前になるがわかる!」と言う人もいるだろうが、観察対象の近くにいる人にしか見えないこともあれば、あまりに近すぎると見えてこなくなるものも世の中にはあると思う。
なので、日本から遠くにいる私としては、遠くにいるからこそ見えることを日本の人に伝えるのが、日本人としてできることかもしれない、とも思うのだ。

そういう気持ちを形に残しておけば、誰か読んでくれる人がいるかもしれないし、その中には共感してくれたり、あるいは誰かの助けになったりすることもあるかもしれない。
あと、文章という形することによって、私自身の頭の整理やアイディアの補強にもつながるかもしれない。

ということで、こちら側から見た日本のこと、技術者として生きること、考えたことなんかを、文章に書き記してみようと思う。

そんな目論見で、この雑記をスタートさせることにした。